「待つの。」の巻

旧約聖書 列王記第一 18章36〜39節
 

 世の中には、名場面、名勝負、というものがありますが、旧約聖書の中にも、歴史に残るような、ある有名な戦いの話があるんです。それは、エリヤという預言者と、バアルという偶像の神々に仕える預言者達との戦いです。エリヤのいた北イスラエルという国の人達は、神様に選ばれた民族でありながらも、多くの人々は偶像(つまり作り物)の神々を拝んでいたんです。そんな中、エリヤは、唯一まことの神様を信じる人の代表として、バアルの神々の預言者達に挑戦状をたたきつけたのです。どちらの神が本物か、決着をつけよう、と。そして両者は、カルメル山という所に集まったのです。さて、戦いのルールは簡単です。いけにえの牛を捧げた祭壇に、どちらが火をつける事ができるか、というものです。但し、手を触れてはいけませんし、マッチやライターを使っても反則です。ただ、祈りだけによって火をつけなければならないのです。さあ、カルメル山に集まって来たのは、エリヤただひとりに対して、バアルの預言者達は450人でした。そこでいよいよ勝負が始まるんですが、まずは先攻はバアル側です。彼らは半日かかって、目いっぱい、祈ったり踊ったり、はては自分の体を傷つけて血を流したりと、半狂乱になってバアルを呼び求めました。しかし何の答えもありません。次はエリヤの番です。エリヤは多くの時間をかける必要はありませんでした。ただ一言、まことの神様に祈っただけでした。するとその時、天から火が降って来て、いけにえを焼き尽くしてしまったのです。さあこれで、エリヤの信じる神様こそが本物である事が分かったのです。このようにしてこの歴史的戦いは、エリヤの完全勝利で幕を閉じたのでした。そこで皆さんに質問です。エリヤはぁ、自分から火をつけに行きましたか?そうです、「行かない。待つの。」でしたね。そうなんです。エリヤは祈った後、何もしなかったんです。ただ神様が火を降らせて下さることを待っただけだったんです。ではなぜエリヤは待つ事ができたんでしょうか。もし神様が火を降らせて下さらなかったら、エリヤはバアルの預言者達に殺されていたかも知れないんですよ。私達だったら、ポケットにマッチかなんかを入れておいて、もしもの場合は自分で火をつけてやれ、なんて思っていたかも知れませんね。
 エリヤが祈りの答えを待つことができた理由、それは自分がどんな神様を信じているのかという事を、誰よりもよく知っていたからなんです。自分の信じている神様は本物であり、絶対に祈りに答えて下さる、という事を信じ切っていたんです。だから相手がたとえ何人、何百人いようと関係なかったんです。
 私達だって、自分の信じている神様は本物だって思っているはずですね。でも、それを頭だけでなく、心の底から信じているでしょうか。目にこそ見えませんが、絶対に神様はいる、そしてお祈りを聞いてくださっている、って信じられるでしょうか。そう信じる事ができるなら、祈った後、ただ「待つ」事ができるんです。だから「待つ」っていう事は、信仰でもあるんですね。もちろん、その信仰だって自分自身にあるわけではありません。私達は、神様に心から信頼して「待つ」事ができるような信仰が与えられるように、神様にお願いしましょうね。

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