「からの〜」の巻

新約聖書 コリント人への手紙第一 15章3、4節
 

 ドラマや映画やマンガなんかで、時々主人公が死んでしまうって事があるじゃないですか。そんな時は、大抵それが最終回で、それでもって話が終わる訳ですよね。だって主人公が死んでしまったら話を続けようがないですからね。でもこれって、私達の現実の人生でも同じ事が言えるんじゃないでしょうか。私達だって、自分の死をもって私の人生のストーリーが終わりになる訳ですよね。ところが聖書の中には、死んで「からの」ストーリーがあるっていうんですよ。
 イエス様と言うお方は、神の子として2千年前にこの地上に来られて、数々の神の国の教えと奇蹟によって、ご自分が神である事を証明されたのでした。ところが当時のユダヤ教の指導者達は、そんなイエス様を神様だとは認めず、それどころかイエス様を、神を冒涜し、世間を騒がす不届き者だとして、捕えてやがて処刑してしまおうと画策するのでした。そしてやがてそのチャンスがやって来ました。イエス様の弟子のひとりを買収して、イエス様の居どころを突き止め、まんまとイエス様を捕え、ローマの裁判にかけてしまうんです。もちろんイエス様は無実だったんですが、ユダヤ教の指導者達に扇動された群衆までが、イエスを処刑しろ、と叫び出す始末です。群衆の暴動を恐れたローマの総督は、とうとうイエス様を十字架につけて処刑してしまうんです。十字架にかけられ、その日のうちに息を引き取られたイエス様は、やがて十字架から下ろされ、墓に葬られるんです。と、普通ならここでジ・エンドとなって物語は終わるはずです。ところが聖書では、ここ「からの」話が重要なんです。イエス様が墓に葬られて3日目、イエス様の仲間達が墓に行って見ると、なんと墓の中は空っぽなんです。そして天使が現れ、イエス様はよみがえられたって言うんですよ。もちろん、人々はそんな事信じられません。しかしやがて、本当によみがえられたイエス様が弟子達の前に現れるんです。こうなってはもう疑いようがありません。イエス様は本当に死からよみがえられたのでした。でも一体、何のためによみがえられたんでしょうか?聖書にはこう書いてあります。「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」
 イエス様は、何もむざむざとユダヤ教の指導者達に捕まって十字架にかけられた訳ではなかったんですね。それは私達の罪を身代わりに受けて死んで、そしてよみがえって罪のあがないを完成させるためだったんです。こうして死「からの」、葬り「からの」、復活によって見事にイエス様は勝利を取られました。そしてそれだけじゃないんです。私達がイエス様を信じるなら、私達も古い自分は死んで、新しいいのちをもって生まれ変わる事になるんです。そうです、私達も死んで「からの」復活を体験できるんですよ。こう考えると、キリスト教って案外、しぶといと思いません?死を持って物語の終わりとするんじゃなくって、むしろ、死んでから始まる物語とも言えるんじゃないでしょうか。イエス様の本当のみわざは、死んで「からの」よみがえりにありました。私達も、イエス様を信じて古い人が死んで「からの」新しい人生に期待しようじゃありませんか!

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