「悪意のある招待?」の巻

新約聖書 ルカの福音書 7章36〜48節
 

 普通、食事に招待するって事は、お近づきのしるしですよね。私達だって仲良くなりたい人には、「今度うちに食事に来ない?」とか「また飯でも食いに行こうや」なんて言いますね。これは2千年前のユダヤでも同じ事で、食事はコミュニケーションの場でもありました。でも聖書を見ると、必ずしもそんなフレンドリーな場面ばかりではなかったようです・・・
 ある時、ひとりのパリサイ人がイエス様を食事に招待したんです。ところがそこに「罪深い女」と呼ばれる人が入って来たんです。もちろん、パリサイ人が招待したんじゃなくて、イエス様に会いたいためにこっそり入って来たんじゃないでしょうか。そしてこの女の人は何をしたかって言うと、自分の涙でイエス様の足を濡らし、自分の髪の毛でその足をふかれたんです。さらにイエス様の足に口づけをし、持っていた高価な香油をその足に塗られたんです。これは一体何なのかっていうと、当時は来客に対しては、まず足を洗う水を出し、歓迎の口づけをするっていう習慣があったんです。この女の人はあいにく、足を洗う水もそれをふくタオルももっていなかったんですが、自分にできる精一杯の事をイエス様にしてあげられた訳ですね。ところがそれを見ていたパリサイ人はなんて思ったかって言うと、こうです。「もしこのイエスっていう人が本当の預言者だったら、今自分に触っている女がどんな女か分かるはずだ。なんてったってこの女は罪深い女なんだから。」
 なんか、イエス様を歓迎するどころか、明らかに悪意のある感じですよね。この女の正体を見抜けるなら本物、見抜けないなら偽物っていう風に、イエス様を試してやろうと思ってた訳です。でもこのパリサイ人、ずいぶんと間抜けな事をしていると思いませんか?なぜって、イエス様がこの女の人の素性を見抜けるぐらいなら、このパリサイの悪意だって見抜けるはずじゃありませんか。でもこの人、そんな事にはちっとも頭が回っていないんですね。それはともあれ、結果的にイエス様はこの女の人の素性を見抜いているんです。そしてあえてパリサイ人にこんな例え話をされました。「ある金貸しが、ひとりに500デナリ、もうひとりには50デナリ貸しました。ところが2人とも返せなかったので、金貸しはふたりとも赦してあげました。さて、どちらがよけいに金貸しを愛するでしょうか。」簡単なクイズですね。もちろん、500デナリ赦してもらった方ですし、パリサイ人もそう答えました。さて、ここからが話の本題です。その500デナリ赦してもらった方が、この罪深い女の人だって言うんです。イエス様に自分の大きな罪を赦された女の人は、その感謝として精一杯の事をしてイエス様を愛したんです。ところが自分は正しいって思ってるパリサイ人は、イエス様に感謝するどころか、足を洗う水も出さず、歓迎の口づけもせず、頭に塗る油も用意しなかったんです。これで、このパリサイ人は、なんか上げ足でも取ってやろう、なんて気持ちでイエス様を食事に招いたって事がばれてしまったんですね。
 この女の人を利用して、イエス様を試してやろうと思ったパリサイ人でしたが、結局、自分が試されて、愛のなさを暴露されてしまった訳です。たとえどんなに罪深くても、心からイエス様を愛する人が、イエス様に受け入れられるって事を覚えておきましょうね。

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